成田時代の三橋鷹女

 1899(明治32)年12月24日、千葉県成田町成田303番地(現在・成田市)において、父・三橋重郎兵衛、母・光の末子として生まれる。本名たか子。幼名文子。父は、成田山新勝寺の重役として成田山六大事業の達成に参画するとともに、成田町の助役として三十年間勤務して町の発展に尽力した。

 三橋家からは数代にわたり歌人が出ており、曽祖父の鶴彦、祖父の貫雄、父の文彦は、いずれも和歌をたしなんだ。また、姻戚には、幕末から明治初期にかけて田園歌人として著名な神山魚貫があった。

 鷹女は、生来、虚弱で、3、4歳まで母の背を恋い、六枚屏風に囲まれ、母に添寝されながらも寝つきの悪い小児であった、という。しかし、色紙や短冊や扇面などが貼り並べられた屏風を眺めつつ、この時分から和歌というもののすがたかたちを、おぼろげながら感じとっていた、という。1905(明治38)年、成田幼稚園入学。翌年卒業(第1期卒)。前髪を垂れたおでこの下に、二重瞼の瞳を光らせて物をじっと見詰めているような無口な子供であった。翌年、成田小学校入学。2キロの坂道を通学。あまり欠席することもなく、ブランコや遊動円木を楽しむような健康を持ちはじめて小学校時代を過ごした。

 1912(明治45)年、私立成田高等女学校入学。同校は前年、成田山新勝寺によって創立された女学校で、鷹女は2期生であった。学校は三方を断崖と堤で囲まれ、秋には紅白の萩がたくさん枝垂れ咲くので、萩学校と呼ばれていた。

 女学校時代は、殊に数学・英語及び図画が好きで、作文は苦手であった。運動はテニスが得意で、放課後、毎日練習した。少女時代から短歌を作り、図書館通いもよくしたが、とりたてて文学少女というほどのものではなかった。

 成田高等女学校は修業年限4ヶ年で、そこで当時のいわゆる良妻賢母式の教育を受け、1916(大正5)年に卒業。卒業後の2、3年間は、いわゆる女芸一般の稽古事に明け暮れた。当時〝夢二の女〟(竹久夢二が描いた和服姿のなよやかな娘)が通る、と人々からささやかれたが、そう言われるような蒲柳質の娘であった、という。

 自宅の裏山は不動ヶ丘と呼ばれ、大木の杉林や松林、梅林もあって、よく散策を楽しんだ。その折、あたりを逍遥する青年僧たちの姿に出逢うことも、しばしばあった。後に師事することになり原石鼎の句に、

春昼の僧形杉にかくれけり

がある。この句は、1919(大正8)年頃、石鼎が成田に一泊した折に詠んだ句だという。また、鷹女の第1句集『向日葵』(1940(昭和15)年)には、1938(昭和13)年の句として、

夏藤のこの崖飛ばば死ぬべしや

がある。この句は不動ヶ丘の小高い崖腹に、初夏になると、その崖肌を覆いかくして咲き競う純白の無数の藤房を回想、イメージして作ったものである。この句に見られる変身的な幻想は鷹女の生涯の句業を貫く大きな特色となっている。

三橋鷹女の俳句の業績

1 結婚から「鹿火屋」時代

 1916(大正5)年、成田高等学校女学校を卒業した後、上京して、国学院大学で国文学を専攻していた次兄・慶次郎の下に寄寓し、兄の師事する与謝野晶子・若山牧水に私淑して作歌にいそしんだ。1922(大正11)年3月30日、千葉県館山市八幡の歯科医師東謙三と結婚。鷹女は満22歳であった。夫の謙三は地元の旧制安房中学(現・県立安房高校)の第2回生(1907(明治40)年3月卒業)で、日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)を卒業して、館山市那古で「那古病院」を経営しており、31歳であった。

 1923(大正12)年、長男陽一出生。

9月1日、関東大震災により一瞬にして病院・住宅・土蔵などが崩壊。病院内にいた夫は一瞬戸外に脱出、難を免れた。母屋にいた鷹女は生後8ヶ月の陽一を抱いたまま倒壊家屋の下敷となったが、夫が病院から自宅にたどり着いた5時間後に足部の負傷だけで奇蹟的に救出された。この母と子の運命的な生は、生涯、母子の深い愛の絆をもたらすことになった。

 倒壊跡整理のため仮住居に3ヶ月過ごし、12月に成田の三橋家に身を寄せていたが、翌年、故郷を引き払って上京。東京府下戸塚の早稲田大学付近に仮寓。2月6日、歯科医院を開業した。この年ごろから俳句も作り始めた。1926(大正15)年、長兄・英治、次兄・慶次郎、夫・謙三(俳号剣三)、その他友人十数名と共にパンフレットによる句作を始めた。鷹女の俳号は東文恵であった。

蝶とべり飛べよとおもふ掌の菫

この句はその頃の作で、出席者全員の選に入ったという。当時、俳壇の主流であった『ホトトギス』の客観写生の作り方とは異なり、後年の才気煥発な作風に通じる斬新な想像力が発揮されている。翌年、「王子俳句会」および「つるばみ吟社」を知り、入会。また近隣の2人の先輩俳人に夫・剣三を交え、自宅で「早稲田クワルテッド」句会を開いた。

 1929(昭和4)年、かねてから原石鼎の吉野山時代(大正初期)の作品に魅せられていた鷹女は、夫とともに石鼎の「鹿火屋」に入会。「鹿火屋」の中でおしどり夫婦の競詠として評判になった。石鼎の吉野山時代の句風は、

頂上や殊に野菊の吹かれ居り

蔓踏んで一山の露動きけり

など、格調高い調べとみずみずしい感覚に溢れた印象鮮明なものであり、詩人的な資質が際立っていた。鋭敏な詩的感覚の持つ鷹女はそこに心惹かれた。石鼎は個性主義を説いて指導に当たった。

新宿のよべぞセル著てゆくべかり

絵簾の蟲が鳴くと思ひけり

日本のわれもをみなや明治節

これらの句は石鼎に師事することで鷹女の才能が開花したことを示すもの。特に「日本の」の句の凛とした丈高い風姿に通じている。この句は小野蕪子主宰の『鶏頭陣』1934(昭和9)年12月号で巻頭をとった句だが、句集『向日葵』では

日本の我はをみなや明治節

と改められ、格調高い凛とした風姿と鷹女の不羈の人となりとが、より一体化した句となった。

2 『鶏頭陣』・『紺』の時代(『向日葵』・『魚の鰭』の時代)

 1933(昭和8)年4月8日、閑静な環境を求めて牛込市ヶ谷柳町に転居。「牛込句会」を結成し、自宅で月例句会を開催。小野蕪子編『鶏頭陣』百号記念第1句集『塔』(1933(昭和8)年8月)では「東文恵」の俳号で「一むらのおいらん草に夕涼み」(昭和5年10月)が入集。『鶏頭陣』1933(昭和8)年7月号では「東鷹女」へと改名した。ただし、鷹女自身の言葉によれば、「まだ俳句は遊びごとに過きなかった」(自筆年譜)という。翌年、原石鼎の病気などにより、思いを残しながら、夫と共に「鹿火屋」を退会した。

 第1句集『向日葵』の略歴で「従来の俳句に不満寂寥を感じ、敢へて冒険的なる句作を試み初め」たと言うが、それは1935(昭和10)年以後、才気煥発な才能が一気に開花した次のような俳句である。

(1)口語文体を駆使した奔放な直情表現の俳句

初嵐して人の機嫌はとれませぬ

笹子鳴くこの帯留が気に入らぬ

煖炉灼く夫よタンゴを踊らうか

(2)鋭敏な感覚と斬新な想像力の俳句

ひるがほに電流かよひゐはせぬか

沈丁にきんかん実(な)れよ憂鬱日

この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉

(3)ナルシシズムの俳句

詩に痩せて二月渚をゆくはわたし

しやが咲いてひとづまは憶ふ古き映画

 これらの俳句は女性性に根ざした才気煥発な新風で、鷹女の独自性が鮮やかに発揮されたものである。1936(昭和11)年、『現代名家女流俳句集』(交蘭社)が刊行され、そこに長谷川かな女・杉田久女・竹下しづの女・中村汀女・星野立子・橋本多佳子らと並んで鷹女も作品を寄せている。また、この俳句集の書評「七色の花々」(『鶏頭陣』1936(昭和11)年7月号)で上記の女性俳人を採り上げている。当時、すでに鷹女は俳壇を代表する女性俳人として評価されていたのである。後年(昭和28年)、山本健吉により4T(鷹女・橋本多佳子・中村汀女・星野立子)と呼ばれた。

 1936(昭和11)年5月、山本湖雨らの同人誌『紺』の創刊とともに参加し、女性欄の選を担当。『紺』は新興俳句の外周に位置する排誌で、自由な雰囲気があり、鷹女が強い愛着を示した俳誌であった。この自由な発表の場を得て鷹女の奔放な詩才はますます発揮された。鷹女は新興俳句の周辺に位置して、才気煥発な才を新興俳句の俳人たちからも愛された。また、改造社の総合俳句誌「俳句研究」にもしばしば作品を寄せるステータスも得ていた。1938(昭和13)年、夫と共に『鶏頭陣』を退会。昭和10年代に確立した独自の新風作品は第1句集『向日葵』(三省堂・1940(昭和15)年)と第2句集『魚の鰭』(甲鳥書林・1941(昭和16)年)に収められた。

3 戦時下から戦後の『白骨』の時代

 同人誌『紺』に、

夏深くわれは火星を恋ふをんな

ひと来ねばカツトグラスの夜がいびつ

など、鷹女らしい才気溢れる句を発表していたが、同誌は1940(昭和15)年3月で終刊となった。以後、第3句集『白骨』を上梓した1952(昭和27)年までの十数年間は、いかなる結社や同人誌にも所属しなかった。1948(昭和23)年秋ごろ、日鉄鉱業社内文化部に「ゆさはり句会」が発足、鷹女は毎月の句会で選句講評に当った。この会は、1961(昭和36)年ごろまで続き、1951(昭和26)年2月には謄写印刷の俳誌「ゆさはり」が創刊された。また、合同句集として『ゆさはり』(1955(昭和30)年)、『叫塵』(1961(昭和36)年)も刊行された。こうした句会指導や総合俳誌『俳句研究』などへの寄稿はあったものの、多くの俳人とは異なり、もっぱらただ1人で俳句と向き合って句作を続けた。これは自己の鋭敏な感性を信じて独立不羈の句作を貫いた鷹女の凜乎とした生き方であった。

 『白骨』に収められた戦時下の俳句は「母子」という題名が物語るように、青年となった一子陽一への一途な母情の吐露となっている。陽一は府立四中(現・都立戸山高校)を卒業後、陸軍経理学校に入学。1944(昭和19)年、卒業後、ただちに中支派遣軍部隊付主計将校として出征。出征以来、音信不通であったが、1946(昭和21)年2月、無事帰還した。

吾子陸軍経理学校入学

花吹雪校門吾子を入らしめぬ

吾子学業を了ふ

花冷えの鼻梁正しく立ち並べり

子の誕生地、房州鋸山の山頂に呆然と佇つ

いのち子に分たん祈り冬山に

敗戦

子を恋へり夏夜獣の如く醒め

 ここには『向日葵』時代の才気煥発な鷹女に代わって、吾が子の学業成就、成長を祝福する一方、出征後の武運をひたすら祈る母としての鷹女がいる。敗戦時の俳句も聖戦俳句の裏返しのような絞切型のものではなく、狂おしいまでに吾が子への母情をほとばしらせている。一途な母情俳句が詠まれた要因には、関東大震災における母子の奇跡的な生という縁(えにし)、愛の絆があるであろう。

 母情俳句は戦後においても散見される。また故郷の成田に住む母を詠んだ句も見られる。

ばらの如き娘のあり吾子を愁へしむ

かなかなや母を負ひゆく母の里

 他方、『白骨』の後半、1948(昭和23)年ごろを境に老いの意識や孤心を詠んだものが多くなる。

百日紅何年後は老婆たち

白露や死んでゆく日も帯締めて

老いながら椿となつて踊りけり

蓑虫の相逢ふ日なし二つゐて

ふらここの天より垂れて人あらず

この時、鷹女は50代半ばにさしかかっていた。この老いの意識や孤心を見つめた俳句は女性俳句の中で例のない孤高の作風として際立っている。それは、やがて第4句集『羊歯地獄』以後、死の意識を伴って凄絶な世界へと深まってゆく。なお、1942(昭和17)年、長兄の死去により後嗣なきため、東家を廃家とし、一家を挙げて三橋家を継ぎ、三橋姓となった。また、1950(昭和25)年、生家の家屋敷を知人に譲渡し、母を東京に迎えた。

4 『薔薇』・『俳句評論』の時代(『羊歯地獄』・『橅』の時代)

 1952(昭和27)年3月、第3句集『白骨』を鷹女句集刊行会より刊行。12月、武蔵野市吉祥寺に新居が完成し、胃潰瘍が回復し退院した夫を迎えた。翌1953(昭和28)年、高柳重信の数次にわたる勧誘により、富澤赤黄男を中心とする『薔薇』に同人として参加。『紺』以来、十数年ぶりに作品の自由な発表の場を得ることとなった。『薔薇』は高柳重信が編集を担当し、象微的な作風が特徴の先鋭な同人誌であったが、鷹女の加入で一段と存在感を増した。富澤赤黄男とは昭和10年代から互いに強烈な個性と独自の作風を誇る俳人として意識し合う仲であったが、『薔薇』において初めて直接会うことになった。『薔薇』時代に2人は互いに刺激し合い、鷹女は、

鴨翔たばわれ白髪の媼とならむ

柳散る鼓膜に皺を刻みつつ

花火待つ花火の闇に脚突き挿し

など、わが身の老いの意識や孤心を深めた。

純粋孤独を追求した赤黄男は、

草二本だけ生えてゐる 時間

稲光 形ナキモノ ヒシメキアヒ

など、虚無的な世界に至りついた。

 1958(昭和33)年、『薔薇』は発展的解消をとげ、高柳重信を中心とする『俳句評論』が創刊された。鷹女も引きつづき同人として参加した。しかし、赤黄男は俳句を作らなくなり、鷹女も間欠的に俳句を発表した。鷹女は詠むべき主題を問われて、「孤独」と答えている。1961(昭和36)年、慶応病院に入院した赤黄男を見舞いに訪れた鷹女に、赤黄男は「同じような句を作っても、どうにもならない」と語った。この言葉は鷹女の心をはげしく打った。鷹女も第4句集『羊歯地獄』(1961(昭和36)年)の「自序」で「一句を書くことは、一片の鱗の剥脱である」と書きつけた。晩年の2人の寡作は、「自己模倣の禁忌」という自他を鞭打つ厳しい作家精神に貫かれていたのである。そして『羊歯地獄』と最後の句集『橅』(1970(昭和45)年)は、その作家精神に基づき、もっぱら自己の老いや死の意識、孤独や孤心をモチーフとして、一句一句自己の鱗を剥ぐように生命を燃焼させ、凝縮させたもので、類例のない孤高、凄絶な句集となったのである。

薄氷へわが影ゆきて溺死せり  『羊歯地獄』

墜ちてゆく 炎ゆる夕日を股挟み

口内一顆の雹を啄み 火の鳥や

椿一重死は生き生きと蕋の中  『橅』

老鶯や泪たまれば啼きにけり

荒海にめしひて鯛を愛すかな

藤垂れてこの世のものの老婆佇つ  『橅』以降

千の蟲鳴く一匹の狂ひ鳴き

 『向日葵』の才気煥発、奔放な作風から戦時下の母情俳句を経て、老いや死の意識や孤心を凝縮した『白骨』『羊歯地獄』『橅』に至る鷹女の句業は、女性性に強くこだわりながら、それを超えた独自の世界を生み出したと言えるだろう。

(解説 川名 大)


句集

資料群名三橋鷹女資料
目録番号1
資料名第1句集『向日葵』
資料群名三橋鷹女資料
目録番号2
資料名第2句集『魚の鰭』
資料群名三橋鷹女資料
目録番号3
資料名第3句集『白骨』
資料群名三橋鷹女資料
目録番号4
資料名第4句集『羊歯地獄』
資料群名三橋鷹女資料
目録番号6
資料名第5句集『橅』(特装幀版)
資料群名三橋鷹女資料
目録番号8
資料名『三橋鷹女全句集』(特装幀版)
資料群名三橋鷹女資料
目録番号10
資料名『日本婦人録』 抄本 上製
資料群名三橋鷹女資料
目録番号12
資料名富澤赤黄男書簡 三橋鷹女宛て 
1952(昭和27)年5月29日   
資料群名三橋鷹女資料
目録番号13
資料名永田耕衣書簡 三橋鷹女宛て 
1957(昭和32)年9月13日
資料群名三橋鷹女資料
目録番号14
資料名高柳重信書簡 三橋鷹女宛て 
1967(昭和42)年7月3日
資料群名三橋鷹女資料
目録番号17
資料名飯田龍太書簡 三橋鷹女宛て 
1968(昭和43)年9月7日
資料群名三橋鷹女資料
目録番号19
資料名赤尾兜子書簡 三橋鷹女宛て 
1968(昭和43)年8月7日
資料群名三橋鷹女資料
目録番号21
資料名三橋鷹女書簡 高柳重信宛て 
1971(昭和46)年6月6日
資料群名三橋鷹女資料
目録番号22
資料名俳句「十五章」自筆原稿 
資料群名三橋鷹女資料
目録番号23
資料名短冊1 (『魚の鰭』掲載)
資料群名三橋鷹女資料
目録番号24
資料名短冊2 (『橅』掲載)
資料群名三橋鷹女資料
目録番号26
資料名短冊3 (『羊歯地獄』掲載)
資料群名三橋鷹女資料
目録番号27
資料名短冊4 (『白骨』掲載)
資料群名三橋鷹女資料
目録番号32
資料名色紙1 (『白骨』掲載)
資料群名三橋鷹女資料
目録番号34
資料名色紙2 (『橅』掲載)
資料群名三橋鷹女資料
目録番号36
資料名色紙3 (『羊歯地獄』掲載)
資料群名三橋鷹女資料
目録番号37
資料名色紙4 (寄せ書き)
資料群名三橋鷹女資料
目録番号38
資料名『羊歯地獄』出版記念会芳名録
資料群名三橋鷹女資料
目録番号39
資料名『薔薇』 1・2月号
資料群名三橋鷹女資料
目録番号40
資料名『薔薇』 復刊第2号
資料群名三橋鷹女資料
目録番号41
資料名『俳句研究』第38巻2号
資料群名三橋鷹女資料
目録番号42
資料名『俳句評論』128・129号
資料群名三橋鷹女資料
目録番号43
資料名『鷹女たたずむ 三橋鷹女ブロンズ像建立記念誌』

その他の関係資料

資料群名三橋鷹女資料
目録番号44
資料名のれん
資料群名三橋鷹女資料
目録番号45
資料名鷹女の像
資料群名三橋鷹女資料
目録番号46
資料名句碑(三橋家墓所)