資料名飯田龍太書簡 三橋鷹女宛て 1968(昭和43)年9月7日
著者名飯田龍太
出版者
作成年1968(昭和43)年9月7日 (消印 昭和43年9月8日)

書き下し文

(封筒 表)

武蔵野市吉祥寺北町四ノ一三ノ二八

三橋鷹女様

(封筒 裏)

山梨県八代郡境川村

飯田龍太

(本文)

再拝 御手紙拝誦仕りました。更に霊前への御志、恐縮に存じます。相済みません。厚く御礼申上げます。

尚、別便にて近刊の拙著(雑文集)御送り申上げました。お恥しいものです。

御自愛の程切に願上げます。御礼まで。早々不一

九月七日     

飯田龍太

三橋鷹女様

※「雲母用箋」

解題

 この手紙は三橋鷹女が、飯田蛇笏7回忌に当り、「蛇笏先生を偲ぶ会」(『雲母』主催)が開かれた折、飯田龍太宛に香典を送ったことに対し、龍太がお礼の返事をしたためた書状である。礼状は200字詰の「雲母用箋」2枚にしたためられている。

 龍太は俳誌『雲母』を主宰する蛇笏の四男であったが、長兄・三兄の戦死、次兄の病死によって飯田家を継ぎ、俳人として『雲母』の編集に当った。1962(昭和37)年10月3日、蛇笏が77歳で逝去した後、『雲母』を継承主宰した。

 「蛇笏先生を偲ぶ会」は、1968(昭和43)年9月22日(日)午前10時から明治神宮参集殿で開かれた。『雲母』だけの内輪の催しであったが、「蛇笏先生を偲ぶ会の記」(『雲母』 1968(昭和43)年12月号)によれば、三百数十名が参加したという。

 『三橋鷹女全句集』(立風書房 1976(昭和51)年3月刊)の『月報』に龍太が寄せた「孤鶴遠望」によれば、龍太は鷹女に一度だけ婚礼の披露宴で会ったという。龍太は招待客の1人。鷹女は新婦の、きわめて身近な縁者として。それは1954(昭和29)年3月、『雲母』の俳人石原八束と鷹女の姪の東洋子の結婚披露宴の折のことであった。それ以後、亡くなるまで、会う機会はなかったが、濃くも淡くもない文通がつづいたという。

 龍太の礼状の文面に「近刊の拙著(雑文集)」とあるのは、この年(1968(昭和43)年)の7月25日に発行された『自選自解飯田龍太句集』(白凰社)のことである。なお、同書はその後、版権が講談社に移り、新装版として発行されている。

(川名大)

NSIN(書誌ID)DL20151000110
種別書簡(封書)
細目状(便箋2枚)
ページ数
大きさ(縦×横)25.5cm×18cm (封筒20.5×9) 
資料群名三橋鷹女資料
目録番号17
撮影年月日2014/01/17
掲載枚数 3 枚
備考便箋に黄色いシミ 封筒に薄い汚れ
所蔵個人所蔵
分類915.6
件名三橋鷹女
件名(成田)成田市-三橋鷹女
キーワード(成田)
地域コードN
郷土分類956