資料名小宮豊隆書簡 鈴木三重吉宛 明治41年11月28日
著者名小宮豊隆
出版者
作成年1909(明治42)年11月28日

書き下し文

封筒表

千葉県成田町成田中学ニテ 鈴木三重吉様 平信

封筒裏

東京本郷森川町一番地小吉館 小宮豊隆 十一月二十八日

本文

こないだは来るかとおもって多少心待ちに待ってはゐたが帰ったね。電報はうけとった。

あの晩は森田と一所に小石川のおでんで大に聞こしめした。あすこのお神さんが君の噂をして居った。岡田と云ふ高木学校の人も大に気の毒だった。初めておでんなるものを喰ふとか云ってゐた。酒ものまずに、草平と小生が盛んにデカデルのをわきにじっとして聞いてゐた。

朝日の鏡花の小説が七十回で十二月の二十三日に済む。その後を荷風がかくんだが二十四日から三十一日まで君が短いものを書かんかなあ。今ホトゝギスも書いてゐるのは五日が〆切だから五日までにはおそくともおくるとして、五日から二十四日までは殆んど二十日の時日がある。それに、つゞくのは一週間だから毎日一回づゝかいて、骨を削り肉を刻むにしたところが知れたものだ。短篇中の短篇でいゝのだから、いくらでも文章にぜいたくが出来る。それに小生でも一回三円くれると仮定しても二十四五円はとれるのだから、いろいろな点から都合がよかろう。切にかゝれんことを望む。今日先生にも話した。昨日は草平とも話した。兎に角来年活躍のプレパレーションとして切に請合はれんことを祈る。

返事は来月草々までにおくれ。ナルベく早い方がよろし。

 十一月二十八日   豊隆

 三重吉様

解題

小宮豊隆も夏目漱石門下生である。これは、豊隆が三重吉に朝日新聞への寄稿を勧めている書状である。しかし三重吉は豊隆宛1909(明治42)年12月8日付けの手紙で「朝日の作が出来ないのは先生にもお詫び申して下さい」と断っている。文面にある「鏡花の小説」というのは『白鷺』のことであり、この連載は豊隆の書いているように1909(明治42)年12月23日ではなく、実際には12月12日に完結し、翌13日からはすぐに荷風の『冷笑』があとを承けたため、三重吉の短編が入る余地はなかった。

(山本侘介 事務局にて一部加筆)

NSIN(書誌ID)DL20101000020
種別書簡
細目巻紙・封皮共
ページ数1枚
大きさ(縦×横)外寸(26cm×232cm),本紙(18cm×205cm)
資料群名鈴木珊吉氏寄贈の鈴木三重吉資料
目録番号21
撮影年月日2012/09/12
掲載枚数 1 枚
備考
所蔵成田市立図書館
分類 816.6
件名鈴木三重吉
小宮豊隆
件名(成田)成田市-鈴木三重吉
キーワード(成田)
地域コード9N
郷土分類866