資料を探す

本・雑誌・音楽・映像を探す。情報の調べ方を知る。

蓬莱閣ホテルと石川家(海老屋)

最終更新日 2014年09月02日

展示期間 : 07月から08月

展示場所 : 本館2階展示


展示全体図
蓬莱閣ホテルと石川家(海老屋) 展示の様子
(クリックするとアップになります)

2014(平成26)年度の市史展示は、『成田市史研究』38号に掲載された「石川隆さん石丸智(さと)さんに聞く 石川甚兵衛・蓬莱閣ホテル」の聞き取り調査の際に、石川氏・石丸氏ならびに成田山霊光館などからご提供いただいた資料より構成しました。
蓬莱閣ホテルは、今から88年前の1926(大正15)年3月に成田山門前に建てられた市内で最初の近代的なホテルでした。ホテルはその後、成田赤十字病院、成田山第一信徒会館と変わり、長く地域に開放され市民に親しまれてきました。成田山開基1070年祭記念事業の総門建立にともなって、惜しまれつつ2004(平成16)年に取り壊され、現在その跡地は広場となっています。
お気付きの点や新しい情報がございましたら図書館までお知らせくださいますようお願いいたします。
 

※今回の展示にあたり、石川隆氏、石丸智氏、三枝浩氏、成田山霊光館、(株)海老屋より資料の提供・ご協力をいただきました。
※展示コーナー右側に、「展示資料リーフレット」をご用意いたしました。ご自由にお持ちください。

展示資料リーフレット【サイズ:1.0メガバイト】 PDF

蓬莱閣ホテル

1938(昭和13)年、成田山一千年祭で賑わうホテルの風景
1938(昭和13)年、成田山一千年祭で賑わうホテルの風景
(クリックするとアップになります)
1926(大正15)年3月、当時の成田町成田353番地に、現在の成田山新勝寺の総門の反対側にあった門前の海老屋・阿波屋・小川屋の三つの旅館が合同で株式会社を組織し設立した、成田で最初の近代的ホテルである。海老屋旅館の石川愛一郎(十代目石川甚兵衛)が、専務取締役としてホテルの創設に大きくかかわった。鉄筋コンクリート3階建て、客室30数室、千人風呂や家族風呂、宿泊客だけでなく参詣客も利用できる大食堂、舞台付きの大広間などを備えたホテルであった。ホテルの設計者は、1926(大正15)年1月22日の東京朝日新聞・千葉毎日新聞によれば内山工学博士とある。また、ホテル工事を請け負った会社は、広島県の藤田組(現在の株式会社フジタ)で、1926(大正15)年6月より工事を着工し、1926(昭和元)年12月31日に完成し、1927(昭和2)年1月1日にホテルが開業した。
(『ふるさとの想い出128 写真集 明治大正昭和 成田』より)。

ホテルの創設に尽力した石川愛一郎(十代目石川甚兵衛)

ホテルの創設に尽力した石川愛一郎(十代目石川甚兵衛)
ホテルの創設に尽力した石川愛一郎(十代目石川甚兵衛)
(クリックするとアップになります)
1873(明治6)年1月10日生まれ、1938(昭和13)年4月16日死去。
慶應義塾大学卒業後、横浜興信銀行(横浜銀行)に勤務、1900(明治33)年帰郷し、実家の海老屋旅館を継ぐ。
1926(大正15)年、成田で初の蓬莱閣ホテルの創設に奔走し専務取締役として活躍する。新勝寺の石川照勤の信頼を受け、成田山の教育事業(幼稚園・女学校・中学校)や成人教育機関新更会の発展に尽くした。
(石川隆氏・石丸智氏提供)。

蓬莱閣ホテル創設にかかわる資料

蓬莱閣ホテルのラベル

蓬莱閣ホテルのラベル
蓬莱閣ホテルのラベル
(クリックするとアップになります)
底辺13.4cm、等辺10.7cm、高さ8.3cmの二等辺三角形を呈する。外側にホテル名・場所・電話番号が書かれ、内側の三角形内には左に1858(安政5)年に建立された本堂(現在の釈迦堂)と、右奥に1712(正徳2)年に完成した三重塔が描かれている。三角ラベルは非常に珍しいもので、帝国ホテルの三角ラベルによく似ている。
資料は、三枝浩氏作成のwebサイト「日本のホテルと旅館のタグラベル」より。
(三枝浩氏より寄贈)

株主名簿

株主名簿
株主名簿
(クリックするとアップになります)
1926(大正15)年8月6日時点の株主名簿。株主総数89名、うち成田の株主は50名、総株数1万5千株。名簿は戦前のため「い」「ろ」「は」の順で作成。B4サイズ3枚の内最初のもので、石川甚兵衛(海老屋)3千株、小野寺武夫(小川屋)2千株と見える。その他は10‐50株である。
(成田山霊光館所蔵)

臨時株主総会決議録 1926(大正15)年8月22日開催

臨時株主総会決議録1
臨時株主総会決議録1
(クリックするとアップになります)
専務取締役石川甚兵衛(石川愛一郎)が議長となり、ホテル建設の工事(広島県藤田組)の概要を含む4件の報告事項と監査役に小堀春樹氏を選出したことを承認した記録である。
(成田山霊光館所蔵)
臨時株主総会決議録2
臨時株主総会決議録2
(クリックするとアップになります)

第1回定時株主総会決議録 1926(昭和元)年12月25日開催

第1回定時株主総会決議録 1926(昭和元)年12月25日開催
第1回定時株主総会決議録
(クリックするとアップになります)
専務取締役石川甚兵衛(石川愛一郎)が議長となり、会社創立後11月30日までの営業報告と、定款に定められた内容の8項目の変更が承認されている。ホテルの創立は7行目に1926(大正15)年3月7日と書かれている。
(成田山霊光館所蔵)

蓬莱閣ホテル定款

蓬莱閣ホテル定款
蓬莱閣ホテル定款
(クリックするとアップになります)
会社の名称、本店の所在地、事業の目的、株式、株主総会、資本金額、組織(役員)など、会社を設立し運営する上での基本的な規則を定めたもの。
(成田山霊光館所蔵)

老舗旅館から蓬莱閣ホテルへ、その後の移り変わり

1、蓬莱閣ホテルが建つ前の成田山門前の旅館

蓬莱閣ホテルが建つ前の成田山門前の旅館
蓬莱閣ホテルが建つ前の成田山門前の旅館
(クリックするとアップになります)
右から海老屋・小川屋・阿波屋・佐野屋・魚田丸の旅館。
写真は、1915(大正4)年の成田山五大事業完成感謝記念開帳時のもの。
(『目で見る 成田・印西・白井・富里・印旛の100年』より)。

2、蓬莱閣ホテル

蓬莱閣ホテル前での出征祝いの光景
蓬莱閣ホテル前での出征祝いの光景
(クリックするとアップになります)
1926(大正15)年3月創立、1927(昭和2)年元旦開業。ホテルの存続期間は昭和16‐17年頃と考えられる。
写真は、1941(昭和16)年頃蓬莱閣ホテル前での出征祝いの光景。
(『目で見る 成田・印西・白井・富里・印旛の100年』より)。

3、成田赤十字病院

成田赤十字病院
成田赤十字病院
(クリックするとアップになります)
第2次世界大戦中、蓬莱閣ホテルは終戦時まで日本医療団成田地方病院(海軍病院)として使用され、1948(昭和23)年2月1日、成田赤十字病院として開設された。
(明治・大正・昭和『成田の歴史アルバム』より)。

4、成田山第一信徒会館

成田山第一信徒会館
成田山第一信徒会館
(クリックするとアップになります)
成田赤十字病院は、1954(昭和29)年5月飯田町に移転。跡地は成田山第一信徒会館として改築された。
(成田山霊光館提供)

5、広場

広場
広場
(クリックするとアップになります)
2004(平成16)年、総門建立に伴い信徒会館は取り壊され、現在は広場となっている。

海老屋旅館

『千葉県博覧図』

1887(明治20)年の下総、上総、安房の各郡町村における資産家、豪農、医家、社寺、学校、工場などの邸宅、建造物400余点を収載する銅版画集成で、それぞれに解説が付されている。この集成図の中に、蓬莱閣ホテルの創立に関わった3軒の旅館のうち、海老屋旅館(石川甚兵衛)と小川屋旅館(小野寺久太郎)の銅版画が掲載されている。
『千葉県博覧図』によれば、海老屋甚兵衛の名の初出は、「1706(宝永3)年で、成田でも商家として古い創業とある。歴代甚兵衛を世襲し、明治時代の甚兵衛(九代目甚兵衛・石川正英)は成田町長・県会議員として活躍し、大正・昭和初期の甚兵衛(十代目甚兵衛・石川愛一郎)は三橋金太郎町長と共に、成田山経営の成田中学校、成田高等女学校等の教育事業の理事として尽くし、愛一郎の子・順は毎日新聞北京支局長を経て、終戦後の混乱期に成田町長となり、教育改革、食糧不足、特に新制中学校設置等の困難な処理に尽くした」と記されている。

仮名垣魯文(かながきろぶん)の『成田道中膝栗毛』

仮名垣魯文は、江戸末期から明治時代にかけての代表的な戯作者。1856(安政3)年、弥次郎兵衛・喜多八の二人を主人公として江戸から成田までの道中記を、鈍亭魯文(どんていろぶん)の名で書いた。この中で、成田詣でで賑わう様子の挿絵の中に、海老屋旅館が描かれている。

海老屋味噌醤油醸造所

初代石川虎之助

初代石川虎之助
初代石川虎之助
(クリックするとアップになります)
八代目石川甚兵衛が安政年間の頃に始めた商売で、1878(明治11)年9月10日に長男虎之助に分家させ継がせた店である。醸造所は昭和30年頃まで営業されていたが、時代の変遷とともに廃業となり、現在はドライブイン海老屋となっている。
1884(明治17)年に土浦の豪商岡本儀兵衛の娘のふでを嫁に迎えた。蓬莱閣ホテル創立の発起人7人の内の一人である。
石川隆氏は、「初代虎之助はなかなかの男振りで、当時海老屋旅館を常宿としていた歌舞伎の五代目尾上菊五郎の養子に迎えたいと懇願された」エピソードを伝え聞いているという。
(石川隆氏所蔵)
海老屋味噌醤油醸造所
海老屋味噌醤油醸造所
(クリックするとアップになります)
一番奥が醤油蔵
中程が店
手前の2階建は西洋館
昭和7‐8年頃
(石川隆氏所蔵)
海老屋味噌醤油醸造所の中庭での記念写真
(クリックするとアップになります)
醸造所で働く人々、昭和初期頃。
(石川隆氏所蔵)
前列右から2番目が石川仁一郎(二代目石川虎之助)。昭和7‐8年頃。
醸造所で働く人々
醸造所で働く人々
(クリックするとアップになります)

味噌・醤油のラベル

ラベルの真ん中には丸の中に目方を測る「分銅」が意匠され、その中に店名の海老屋の「海老」が描かれている。
なお、商標は「分銅海老」または「花分銅海老」である。
(石川隆氏所蔵)
醤油のラベル
醤油のラベル
(クリックするとアップになります)
一升瓶に貼ったラベル
一升瓶に貼ったラベル
(クリックするとアップになります)
味噌のラベル
味噌のラベル
(クリックするとアップになります)

印半纏(しるしばんてん)

八代目甚兵衛(1830(天保元)年‐1884(明治17)年5月)が自らデザインし着用していたと思われる革製の特注印半纏。
襟には土にカギ(甚兵衛の紋)と甚兵衛の甚の2文字が縦に記されている。前‐後身頃には石川家の家紋である「笹竜胆(ささりんどう)」を粋に意匠し、背中には海老屋の海を丸で囲んでいる。
海老屋の海老を分銅の中に配したものが海老屋醤油の商標となっている。
(石川隆氏所蔵)
印半纏(しるしばんてん)
印半纏(しるしばんてん)
(クリックするとアップになります)

鬼瓦

鬼瓦
鬼瓦
(クリックするとアップになります)
海老屋味噌醤油醸造所の土蔵の屋根に使われていたものである。
解体時に撤去し石川隆氏が大切に保管していたものである。印半纏と同様に「土カギ」が描かれている。
(石川隆氏所蔵)

石川家に伝わり大切にされている書画

今回展示した4点は、石川家で表装・額装し、大切に保管されている資料の一部である。
明治から昭和初期にかけ、成田町の発展に尽くした石川正英・愛一郎(九代目・十代目石川甚兵衛)や初代石川虎之助(八代目石川甚兵衛の長男)の時代、海老屋旅館には様々な著名人と交流があったと伝えられているという。

船越衛(まもる)書簡

1881(明治14)年明治天皇の三里塚行幸に際し、当時千葉県令であった船越衛が、新勝寺より東伏見宮、伏見宮へ献上の氷に添えられたと思われる書簡の草稿か。
東伏見宮・伏見宮は、1881(明治14)年の明治天皇の成田市域行幸に供奉され、6月30日は三里塚の種畜場、競馬場などを廻られており、書簡はこの時のものか。

口語訳
拝啓、新勝寺において今日東京より凍氷を取り寄せました。
折しも炎暑の時期とあり宮様に献上いたしたいのですが、じかに進献しましてはかえって無礼と深く恐れ入りまして、私から差し上げてくれますようにとの申し出を承り、とりあえずご覧に呈しますのでよろしくご披露ください。
追って本文にあることは私が参上して申し上げますので、とにかく宮様へご進献ください。
船越衛書簡
船越衛書簡
(クリックするとアップになります)

絹の袱紗寄せ書き

原口照輪(しょうりん)・柳田正斎(せいさい)・神山魚貫(なつら)など11名
絹の袱紗寄せ書き
絹の袱紗寄せ書き
(クリックするとアップになります)

奥原晴湖(せいこ)の日本画

幕末から明治期の女流画家の席書と伝えられている
奥原晴湖の日本画
奥原晴湖の日本画
(クリックするとアップになります)

柴原和(しばはらやわら)(初代千葉県令)の書

柴原和(初代千葉県令)の書
柴原和(初代千葉県令)の書
(クリックするとアップになります)

さまざまな分野で活躍した石川家の人々

石川家には、蓬莱閣ホテル創設に尽力した石川愛一郎のほかにも明治時代から近年までさまざまな分野で活躍した人がいた。

石川正英(九代目石川甚兵衛)

石川正英(九代目石川甚兵衛)
石川正英(九代目石川甚兵衛)
(クリックするとアップになります)
正英晩年の古希(昭和2年)の時に撮影された写真。1858(安政5)年9月19日生まれ、1928(昭和3)年1月8日死去。
1889(明治22)年成田町が誕生すると町会議員、翌年第二代目の成田町長に就任。1895(明治28)年5月から翌年3月まで千葉県会議員を務めた。三池照鳳(しょうほう)・石川照勤(しょうきん)の新勝寺住職と提携し、成田山五大事業である成田図書館・成田幼稚園・成田中学校・成田高等女学校・成田山感化院の創設や経営に尽力した。また、三池照鳳が発起人代表となり、町の発展と参拝客の利便のため、総武鉄道(後の国鉄)の設立をする際に、地元の有力者として出資し、中央の実業家とともに鉄道の敷設に尽力した。
(石川隆氏提供)

石川正英の墓

石川正英の墓
石川正英の墓
(クリックするとアップになります)

宗吾霊堂の北、JA成田市公津支所の反対側の墓地の奥にある。正面に石川正英之墓と書かれ、右側面には、法名 淳徳院紫山正英居士、左側面には、昭和五年九月 石川甚兵衛建之とある。
なお、石川家墓地は、成田山白髪庵に所在し、正英の本墓は其処に存在する。
裏面(□部分は判読できない箇所)には、

石川正英は成田町の人
本姓は関川氏藤右衛門□補平治郎の次子にして
安政五年九月十九日出生幼名を彦治郎と云ふ
出でて石川氏を嗣ぎ甚兵衛と改む
大正八年六月家督を長子愛一郎に譲り正英と□す
尓来風月を□とし悠々自適す
夙より(「より」は合字)鳴鐘山前貫首田中僧正を相許し互に傾倒する所あり
昭和三年一月八日齢七十一にて没するや
三好鳴鐘山貫首の厚意により遺志に本つきて田中師の□域にその歯骨を□む
今墓碑を建つるに際□□の由来を敍するもの也
と記されている。

石川順

石川順
石川順
(クリックするとアップになります)
1902(明治35)年‐1960(昭和35)年。石川愛一郎(十代目甚兵衛)の次男。
柏原文太郎(成田市寺台)が設立に関わった上海の東亜同文書院に入学。
毎日新聞北京支局長として活躍し、日中戦争が拡大するなか両国の様々な問題解決に手腕を発揮。
戦後成田町長、国鉄の顧問、成田山新勝寺の檀家総代も務めた。主な著書に『砂漠の花』がある。
(石丸智氏所蔵)

石川眞

石川眞
石川眞
(クリックするとアップになります)
1932(昭和7)年‐2011(平成23)年。石川仁一郎(二代目石川虎之助)の長男。
産経新聞社常務、日本工業新聞社専務を務める。
1983(昭和58)年、サンケイ新聞社行政改革取材班代表・編集委員。
「行革キャンペーン武蔵野市4000万円退職金引き下げを中心とする報道」で、日本新聞協会賞(編集部門)・第31回菊池寛賞を受賞。
(石川隆氏所蔵)

石川愛

石川愛
石川愛
(クリックするとアップになります)
1939年(昭和14)‐2013(平成25)年。石川愛一郎(十代目甚兵衛)の次男・石川順の次女。
社団法人日本秘書協会理事長・最高顧問。
著書に『トップ秘書から後輩へ86のメッセージ』『秘書の目』『国際秘書への道』などがある。
(石丸智氏所蔵)

石川仁一郎(二代目石川虎之助)と圓城寺次郎

仁一郎は海老屋味噌醤油醸造所を継ぎ、現在のドライブイン海老屋の社長となった。
圓城寺次郎は市内下方の生まれで、のちに日本経済新聞社の社長、中曽根政権時の第二次臨時行政調査会の会長代理となる。
仁一郎と圓城寺は成田中学(現成田高校)・早稲田大学の同期である。
また、仁一郎の長男石川眞は、サンケイ新聞社時代に行政改革取材班代表・編集委員として、親子二代にわたって圓城寺家とは深いつながりをもっていた。

成田山門前の航空写真

昭和40年代になると新勝寺は大本堂が建立され、周辺部にも民間駐車場などが現れ、門前の景観が大きく変わっていく。
本写真はそれ以前の門前の様子を伺える貴重な一枚である。
現在のドライブイン海老屋の階段に飾られている2m前後の特大の航空写真。
大正末期の成田山門前の航空写真(石川隆氏提供)
大正末期の成田山門前の航空写真(石川隆氏提供)
(クリックするとアップになります)
1958(昭和33)年9月7日撮影の成田山門前の航空写真((株)海老屋提供)
1958(昭和33)年9月7日撮影の成田山門前の航空写真((株)海老屋提供)
(クリックするとアップになります)